誰もが優しくなりたいと言う。誰もが包容力のある人になりたいと言う。しかし、そのために自分が出来ること、という概念を、ある人は初めから、それをすることで自分がより多くの快楽を貪れる状態になるための手段として捉えている。またある人は、ひたすら自分を貶め尽くすことでそれが相手のためになっていると盲目的に信じている。誰もが人に救われているのに、誰もがそれを自分が思い通りに相手に与えられない現実を前に立ち尽くしている。やさしさとは一体何なのだろう。貴方に満たしてもらえた自分とは一体。貴方に対して私が出来ることは何か。それはそれをすることで貴方にとって私がやさしい人間だと思われるだろうと、自分が思っていられるだけの自分が欲しい物をただ先に与えてそのお返しを待つような行為、でしかないのならそれは何だ。何も奪い取ろうとせずに何も与えようとすることが出来ないのなら、与えようとすることに執着すること自体エゴで、相手に何かを、有形無形の何かしらを、自分の自由に与えることが出来ると信じたがるということが、既に相手を侮蔑している。貴方が望むものを私は知らないし知る由もない。それでも貴方という太陽に群がるもはや植物人間の私は、貴方の役になんか立たないことを知りながらそれでも勝手に貴方の隣にいただけ。申し訳ないなんて、口先で言うことで満たしたいのも自分のプライド、ただ一つ。そのことを、自己卑下することも許されないような完全なる不完全体、それでも貴方と、繋がることを諦められないなら諦めなければならないだけ。私は貴方を、どうすることもできなくて、いい。そう、思えていない人間の、その人なりの優しさなんて届かない。なぜならそれは、その人にとっての相手、自分がその相手によって救われるとその人が思っているポイントについてしか言及できないような作られた優しさだから。そのくらい、人はまず自分が満たされたい生き物だから。満たしてあげたいなんて嘘だから。それを肯定して自分を愛することだけが、貴方を愛するということの本当の意味だから。私は貴方に何も出来ない。私が貴方に勝手に貴方が望む全てのことをしてあげたいと思っているだけ。それを貴方に勝手に押し付けることも許されない。本当に許されたいのは私の存在だけだから。そして私を本当に許してあげられるのは私だけだから。自分の存在に完全性を見出した人しか他人の完全性を肯定できない。もはや媚びる必要が無いなら優しくする必要も無い、そしてそんな優しさが優しさでないなら媚びないことが優しくしないことなのでもない。私は此処にいるだけで私の世界の全てを担う神で、貴方はそこにいるだけで貴方の世界の全てを担う神だ、そう心の底から言える自分でいることが出来れば、私も貴方も既に完全なのだろう。だからこそ、自分が相手に好かれようとして言っただけの誉め言葉は、自分にとってのメリットになる相手の一部分に限定した見方の吐露にしかならず、そんな一部分が優れていようがいなかろうが既に相手が完全であることを否定しているようなものだから、相手そのものを見た上でではないような本心ではないような何かしらの取引を迫っているかのような個人的な一方的な願望を、お願いしているような媚びを売るような下手に出るような粘着性が醸し出されるその執着性が、貴方がいないと生きていけないと言っているような余裕の無さつまり、自分の完全性を否定するようなつまり、相手の完全性を否定するような本当に人が満たされたいと思っている自尊心というものを自分自身が保てない弱さが相手の自尊心を満たす上でマイナスにしか働かないから、あなたが相手に執着するのと同じ目的で、相手もまたあなたから離れることに執着せざるを得ない。あなたが相手に執着せざるを得ないということは、相手があなたから離れることに執着せざるを得ないということとイコールなのだ。 そのくらい、人はまず自分の存在に自分で完全性を見出したいだけ。追わない人だけが追われる。追った瞬間に追われなくなる。貴方なんかいなくても生きていける人を、貴方もまた求めているのだろう。そうして貴方もまた誰を追うこともなく生きていける貴方でいたいだけなのだろう。貴方は貴方の存在そのものを肯定されたがっている。それを躊躇うことなく全肯定しないことで貴方を何とかこちらに惹き付けようとするということをせず、私は何の目的もなくさりげなく貴方の存在を全肯定しよう。そして全ての手札を惜しげもなく使い切って私は軽やかに貴方の元を去れるような、人になりたい。
やさしくなりたい。
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