how to being as a human 想うということを問うていくこと

感情だけで、「友達になりたいだけ」なんて言ったって、結局私は、あなたの顔が美しくて、体や声が魅力的でセックスしたいと思ってないなんてあり得なくてだからあなたを選んでいて、それを全面に打ち出して失敗することを恐れているだけとしかあなたの目に見えていないならそれを、「本当に友達になりたがっている人」に変えようとすること程の甘えもキモさも存在しない。憧れも愛情もただの着飾った言葉。夢に出てくるほどあなたが好きなのはあなたとセックスしたい証拠でしかない。それが、そんな言葉がただ伝わればこの想いが分かってもらえれば、私があなたに抱く感情乃至性欲と同じものがあなたに、あなたから見ての私に対して、抱かせられると、信じることが、美しいことであると、考えることは、それが私にとってただ、都合がいいからだ。それを認めまいとすることは許されない。それに相手にとってメリットがないということ、分析するにそれがメリットであるとするならば、相手が私をただのヤリチンではないと信じることが出来ることでの安心感に繋がることくらいのもので、それが相手に重要なものである場合は相手が私と付き合うメリットになり得るという、部分でだけだ。勇気も自信もそれを自分の理想のためにそれを貫くためにあるのではなく、相手にとって自分の存在が、こういう点でのメリットであると知ることが出来たと思えた時に、それを信じその相手にとってメリットがあると自分が思う独りよがりの可能性もあるその行動を、それでも勇気を持ってしなければならない場面でのみ発揮すべきものでしかない。それでも、私の口をついて出る、「友達になりたいという本心」を、私は私の、性別を引き受けることからの甘えとは断じることが出来ない。あなたとセックスがしたい、というより、セックスをする関係が恋人関係であるなら恋人になりたいというより、セックスがしたいという本心をただ言い合えるようなただそれだけの友達でいたい。それが本心だからこそわざわざこれを書いているだけの私でいるのだろう。世の中においては、これらの情動を何か特殊なセクシャリティとしてデミセクシャルと呼称するらしい。セックスに向かって一直線に合理的に向かっていくことが男としてモテるということならば、私は男としてモテたいとも、そして男として生きていきたいとも一度たりとも思ったことはない。友達でいたいという本心をさらけ出して号泣した時、相手が私を、恋人になることを一旦あきらめたそしてまた狙い直そうとしているだけの男として私を捉えたという可能性など私は微塵も思い及ばなかった。私がどこからどう見ても成人男性のなり形なのはとっくに認めていても、成人男性=で定義される、単純な性衝動を私が持っていないこと、により私が定義され得るという私の異常性及び私から見たいわゆる成人男性の異常性の、要は、乖離を、私が把握していなかったが故に、私は自分をただのモテない男としか定義し得なかった、にもかかわらず、モテている男をうらやましいとも思わないという奇妙な構造を抜け出せないでいた。世の中が漠然と要求してくる類の関係性の構築の、その先になどあり得ない類の関係性の構築を何故か理想としてしまっていたところからの始まりだった世界だった。こんなにも何はともあれ肉体が触れ合ってさえいればそれでいいのだとするような男女が多いことが想定外過ぎて想定し得なかった世界だった。そして今、さてどんな橋を架けるにしても、私は何か、いわゆる男性的な何かに私を擬態させざるを得ないのだろうし、それでもいいから橋を架けたいと、思える人に出会うこともそうそうないだろう。だが橋がかからなくてももはや私は生きていくだろう。あなたを見失いながら、世界を見失いながら、世界は始まっているのだろう。あなたが全てだからこそあなたである必要はなく、だからこそ私はあなたに全てをさらけ出したくて、嫌われたら終わりだからこそ嫌われない努力をし続けることに迷いがないからこそ、嫌われることを闇雲に恐れることもまた嫌われる要因になると気付いているからこそ、もはや大事なのは、その大事なことに気付いたとしてもあなたに嫌われない保証になどならないことに気付いて泰然自若としているような、それでいてただ自分が、このような自分でありさえすればあなたにとって魅力的でなくても別にいいということすら一切なく、あなたにとって魅力的である人間が私がなりたい私でしかないでも一生そうはなれない気配が濃厚な中で、絶望の一歩手前までただあなたに微笑みかけることが出来るように、強い人より優しい人に、優しい人より柔らかい人に、柔らかい人より透明な人に、透明になれる強さを持ちたいという届くことのない願いなど願う意味もなくてそれでもあなたを、想うということを問うていくこと。

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