how to being as a human 自己卑下という毒

自信を持たないことに、美徳なんて存在しない。「どうせ自分なんて」という自己卑下など、行動しないための自己防衛、自分以外の全てに対する甘え、行動すれば何かを得得、何かを失い得る。言ってしまえば傷付くリスクを取らなければ誰にも何も話しかけることなど不可能だ。自分が傷付かないためにのみ相手から話しかけてもらえることを待つためにのみ自分の中で居場所を与えられる感情。行動しないという行動をし続けることによって自分の中で無限に循環し続けるだけの、行動しない理由の意味のない正当化、それの果てにあるものがただの、待ち続けることで待ち続けている自分に気付いてくれる人の登場への憧れに過ぎないのなら、憧れこそが悪徳だ。どんな美徳も悪徳も、人の人に対する働きかけの性質を定義したものに過ぎないのだから、人が人に働きかけないためしか機能しない憧れなど、美徳でも悪徳でもないゴミ屑でしかない程の本質的な悪徳だ。何故そんなものを後生大事に抱えながら、人に好かれる努力をしないことに五里霧中になってしまったのか。それはつまり、私が、生きようとしていなかったということだ。そしてそれでも私は未だに生きていて、今、私が生きようとしていなかったということに気付いてこれを書いている。それもこれも結局は私が生きようとしている証拠であって、つまり人は生きている以上生きようとし続けるということをしなければならない存在なのだということに気付いてこれを書いている。書いているだけじゃ何も変わらなくても書いているのなら、書くことで人と繋がろうとすることが私の「生きる」であるならば、もはや私はひたすらに、行動している、自信を持っている。そして何も変わらない、それの何が苦しいのか、それを考えることでこの文章が生まれている、それの何が嬉しいのかがもはや分からないが何故か今生きていると感じてしまっていることがただの、苦しさの原因であり、その苦しさを放置する原因であり、そして何より、この空しさを、この空しさを言葉にするだけの空しさを、また空しみながら言葉にしながら空しみながら言葉にして、私は生きている。それが空しい。何故ならこれが、誰にとっても意味のない言葉かもしれないから。それを期待することしかできないから。もういい加減、幸せになることに向き合いたい。本当はただ貴方と目を見て話がしたい。そこに空しさ以外の全ての喜びも苦しみもあることを知っているから。それを幸せというなら私は、「どうせ自分なんて、幸せになるに値しない」と考えていたのだ。そして私は知らなかったのだ。「どうせ自分なんて、幸せになるに値しない」と考えていることが、他人に対して失礼で、そして何より他人を不幸にもするということを。

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