自信がない人、小さく肩を竦ませボソボソした声ですいませんばかり言う人よりも、自己卑下など一切しないような人が心に残る。謙虚さではなく、傲慢さではなく、意味もなく自分を何故か予め小さく見せようとすることの本質的な卑しさに皆気付いている。どんな方法論を持っていても、どんな経験的知恵を持っていても、常に新しい局面を迎え続けるのが人生だ。つまり常に、全ての行動にリスクが存在し、仮にそのリスクを常にゼロにしたいとしたらその人がとるべき行動はただ一つ、何もしないということだ。そして今、何かしらのリスクをとって、何かしらの行動を起こす、ということをしなくてもいいほどの完全無欠さなどあり得ないのなら、生きるということは、死ぬリスクを背負い続けることにほかならず、その勇気そのものを、そのまま生命力と呼んでしまっていいのではないだろうか。そしてその勇気の意味は、常に他人だけが評価する、それは無謀な賭けだとか、それは君なら出来るよ、とか。そしてその言葉を以て、人は自分に自信を持ち、いつしか自分に出来なそうなことを避け、出来そうなことだけをやる、という知恵を身に着けていく。しかしその自信とは、勇気を振り絞らなくても自分なら出来ると経験的に分かっていることだけをやる、という意味に他ならず、その行動可能範囲を広げていくことが自信をつけていくことであると言えるかと言えば、それはそれで否だろう。何も振り絞らなくても簡単に出来ると分かっていることをただやることにもはや自信など必要なく、出来るか出来ないかなど知る由もないことに挑戦することもなく新しい地平を切り開くことなどあり得ないことは、どんな経験を経ても変わらない世界の側の普遍性だからだ。自信をつけていこうなどという考え程甘いものはない。自信があろうがなかろうが、出来るか出来ないかなどという判断に関わらず、やらなければならないことはやらなければならないこともあるというだけ。勇気というものを、自分が振り絞れる範囲で振り絞りその度合いによって漠然と自分の行動範囲を自分で定め、その結果一人で息苦しさを感じ鬱屈していくくらいならいっそ全ての愛を告白し死ぬほど絶望すればいい。それを躊躇う程度に人を愛するくらいの中途半端さを脱ぎ捨てられないことに心から絶望すればいい。自信とは、自信など、自信があるかなど、考えることがくだらないということを心から納得できている、そんな精神状態、それは、それが自信があるということだ、ということではないということを、だ。自信など必要ない、貴方を愛する時に、この私の愛が貴方に受け入れてもらえるかどうか、それによって要は、私が、傷付かずに済むなら愛、するのか。頼むから自信を持ってくれ、頼むから自信などそもそも必要としないでくれ。相手が求めているかもしれないものを全力で与えたい、それが少なくとも必要とされていなくても無意味ではないものでしかないものであっても、私は貴方に触れていたい、そんな野蛮で純粋な感情に、それによって自分が傷つかないのなら、などという絶望的な勇気の無さで、くだらないほど悲しい雲で、世界を、どうか陰らせないでくれ。あなたは死ぬ、かもしれない、わたしは死ぬ、かもしれない、それが今更、あなたを、愛することを躊躇う理由にならないことを許してください。受け入れてもらえなくて、何も伝わらなくて、一人、地獄に落ちる夜になっても、もう、関係ない程、あなたが求める一筋の光に、私がなれる可能性に、私はまさに命を懸けたい。それは私に、自信があるから、などでは決して、ない。自信とは、自信の有無を問わない自信、根拠を必要としない確信、私なら出来る、ではなくて、自分に得られる成果ではなくて、自分が相手に何かを与え得る可能性があるなら100傷付いても1与え得るならそれでいいという、命懸けの、命の、投擲、笑え!
how to being as a human 自信

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