how to being as a human 目

人の目を見て感情のやり取りをしようとしない人に、人が惹かれるはずがない。目をそらすことそのものが感情表現だと伝えたい場合でも、それを伝える時だけは目を見なければ伝わらないのと同じように、そもそも目が合わない相手に自分から話しかける人はいない。人は人とのコミュニケーションの間で初めて人として在るのだから、せめて広範囲な意味で好きな人といる時は顔を上げよう。好きな女性の前でも尚更、相手の目を見ることができないことは自信の無さの表れであり、人間社会で生きる上でのコミュニケーション能力の低さをも自ら吐露しているようなもの。動物であればそれは威嚇に対する怯み、そして相手より格下に成り下がる。格上の遺伝子を取り入れたい雌からは弱い雄の烙印を押されるだろう。逆に一目惚れした時、人は相手のことを5~7秒程見つめてしまうと言われている。自分が相手の目を見つめている時、相手もまた自分の目を見つめているから、相手に無理矢理自分を見つめさせることで、実は相手の感情を揺さぶることが出来る。好きだから見つめていたい、という感情がまずあったのでなくてもよく、逆に、見つめているということは好きなのかもしれないと、感情が現実に追随されられるように醸成される。好きでないのに見つめていることは気持ちが悪いので、見つめているということは好きなのだと、人は自分を納得させる。これを認知的不協和の解消という。好きだから親切にするのではない。小さなお願いでもいいから聞いてもらえば、親切にしているということは好きなのかもと、人は自分に現実を納得させる。そしてその時、「すいません」や「ごめんね」よりも「ありがとう」と言おう。自分の選択でやったはずなのにそれに対して謝られると、人は自分がそれを、状況的にやらざるを得ないからやらされたかのように認識せざるを得ないため、相手の中にある、自分の行為により自分が相手の役に立ったつまり相手にとって自分が重要な存在なのだという、人にとってもっとも大切な自己重要感を奪ってしまうことに繋がるのだ。

「ありがとう」、あなたがいてくれてよかった。

「ありがとう」、あなたの選択したあなたの行動によって、僕は救われた。

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